子供は子供のゲームで遊んでいればいい
2019.12.08
最近の子供たちは、ゲームが超好きだ。
しかし、ゲームといえば、スポーツはみんな
勝ち負けを競う大なり小なりゲームだ。
大人にしても
恋愛はゲームのようであり
株式はまさにゲームであり
実業家といっても
やはりお金が絡む勝ち負けゲームだ。
真面目なサラリーマンと主婦だけが、
せっせと仕事をしている。
そのサラリーマンや主婦も
AIやロボットに引き継がれ
時間が余り出す。
そうなると
誰しも考える。
暇を持て余すより、
その穴を埋めてくれる
それぞれの好きなゲームで我を活性しよう。
何もない時間は耐えられない。
知らないことがあれば、AIに聞けば
すぐにわかりやすく教えてくれる。
ならば、教育だって変わらざるを得ない。
記憶しても始まらない。
では、何をする?
瞑想とゲームしかない。
では、これを大上段に構えて
心と身体を含めた人生ゲームとしよう。
考えてみると、
誰しも
いつまで健康で経済的にも生きられるか、どんな運命がやってくるのか
不安の中にも望みを抱きながら
いつかやってくる死を気にしている。
これを達観して見るなら
すでに私たちは
サバイバルゲームの中にいる。
ならば、やってみようじゃないか
人生をかけた自分自身のサバイバルゲームを。
このゲームは勝ち負けがかかっているわけではない
自分自身のまだ想像もしていない輝かしい個性を賭けた
究極の大人ゲームだ。
子供は子供のゲームで遊んでいればいい。
その前に、量子という道具を確かめよう。
今、その道具がある
目には見えないが、オーラに包まれている最新鋭機が
絶対内緒だよ
2019.12.08
量子は本当に不思議だ。
観察によって変化するからだ。
それも観察者を観察しているようなのだ。
ちょうど
見る人が
愛のありそうな人を見ると、にっこりする
批判的そうな人に見られると、すぐにその表情を隠す
面白そうな人が見ると、緩む
怖そうな人に見られると、気がつかないふりをする
こんな感じで、観察者を観察しているような振る舞いをする。
物理学の世界では、こんなことは絶対認めたくない。
観察者が批判的でも好意的でも、変わらない事が科学の基本だ。
もし、観察者によって、振る舞いが変わっては信頼のある算数計算さえできない。
超難しい物理の数学式が全て無駄になる、、、
だから観察者効果をどのように消し去るかが、第一の研究課題になっている。
そんなところに持ってきて、量子場調整だ。
観察者によって変化する量子の性質は、量子そのものに愛が通じる証拠だ。
ならば、その万能な能力をもって
症状やトラウマを消し去ることも
新しい能力を創造することも
まだ見ぬ自分自身の個性と出会う可能性さえも開くことになる。
あとは、この関係での法則性を見つけることだ。
内緒だが。。。実は、もう12年前に見つけて実用化している。
絶対内緒だよ。
愛は万能であることもね。。。。
遊んでられん
2019.12.07
科学者が物や現象を観察する時、その観察者はその人の知識でありその人だ。
私たちが、健康になりたいとして思い描いた、その思いは誰が観察するのだろうか。
物を見ているのと違って、思いは目に見えない。
それは、、
はじめのうちは、その人であるが、徐々に意識そのものが見始めるのだ。
ここが問題だ。
意識そのものが観るということは
そこに人の判断がないがために
生まれるものは量子なのである。
つまり、量子は意識の子供というわけだ。
ということは、量子は意識を持っていることになる。
そのために、物事が加速し始めることになる。
この時、物や自分自身の習癖にとらわれた見方をすると、意識が観ることを遮ることになる。
私たちが量子を生み出すわけではない。
意識がその全知能力の能力において量子を生み出すのだ。
私たちは、理屈であり、損得勘定の人としての欲望だ。
それが悪いわけではない。
それがなければ、量子も大忙しだ。
遊んでられん。
量子はそう言っている。
量子は神の王子のように、遊びの達人なのだ。
それが好きでたまらないというのに
2019.12.07
もっとも個性的な美は、染み付いた過去の習癖をふり払った姿にある。
普通、歪み癖のある性格が
自分の個性であり
丸ごと受け入れてくれる人が
愛のある人だと思う。
そのような人を子供の頃からずーっと待っている。
スピリチュアル系の美辞美麗で
あなたはそのままで、いいんだよ。
そのままで愛されるべき人なんだという。
深い意味ではその通りだ。
しかし
こんな事に近い。
顔にごはん粒や、何年も引きこもって歯を磨かないので口臭
それを見て、そのままでいいんだよと言っているような感じだ。
可愛い癖もあるが、被害者意識や、いじめなどの習癖はそうはいかない。
本当に会いたいのは、
その人にまとわりついた過去やその性格ではなく、その人自身との出会いである。
ある人は、見栄を張るのに忙しい。
ある人は、自分の主張が通らないだけで、切れる。
ある人は、すぐに被害者モードになる。
ある人は、音無しの構えだ。
これらの習癖は、どれもこれも月並みなもので、個性的ではない。
生まれた時から今までに、親か友人か誰かの真似した習癖であって、その人自身ではない。
自分が、その真似事が自分の個性と思っている場合
どんな人も、その真似事を愛することはできない。
だから、素晴らしい関係が難しい。
自分の愛している習癖を相手に押し売りしているのだから。
結局愛しているのは自分でもなく、相手でもなく実体のない真似事だ。
では、どのように染み付いた真似事を振り払う?
それが好きでたまらないというのに。
ハグし合いながら別れた
2019.12.06
また妙な、巡り合わせから
ある哲学者とも宗教家とも思えるN氏との一席が設けられた。
例外にもれず、名刺交換。
顔を見合わせ、
私から本のさわりを読ませてもらいました。
なかなか、面白いことを書いてますね。
その後、正面にいる私を忘れて隣のかあちゃんに、
20分ほどテープレコーダのようにご高説を話しだす。
話すと止まらないタイプだ。話の隙間が全くない。
思い余って
その何処かで聞いたような話は、知っているから
共通点を話しましょうか。
なおも、ご高説がかあちゃんめがけて止まらない。
あたかも信者を見つけたかのように。
そのご高説を
あまり話を聞かない私も呆れ果て、しぶしぶその理想説を聞くことにした。
彼はこんなことを言っていた。
世界の思いを統合し、素晴らしい世界を作る。
その役割は日本人の心の世界にある。
一時間も過ぎた頃
言ってやった。
日本人の心の中にあるのはいいが
あなたは私の観点からは間違っている。
世界の思いを統合するのは、不可能だし意味がない。
可能で意味があるのは、すべての人が自分自身を取り戻し
個性的になることだ。
その輝いた個性と個性が自然カラフルな世界を創るのであって。
考え方や、価値観を一つにすることは
政治家や宗教家の目指すところはかもしれないが、
そんな理想は白黒の茶番に終わる。
時間がないと。出会いは途切れたが
苦笑いを浮かべながらもハグし合い別れた。
またいつか、別の側面での出会いを楽しみにしよう。