観察者は、誰が何を観察しているのだろうか。
2019.11.15
科学者は、できるだけ自分の思いを入れないように様々な事象を観察しようとする。
それが物事を、明確に判断する基準だ。
もし、あらかじめ良い結果を出そうと、望みや既成概念が絡むと信頼性のある結果ではなくなる。
だから、科学者はニュートラルな心を大切にし、正直であろうとする。
一方、量子場師は、病気の惨状がどうあろうと、健康な思いをもって観察をしようとする。
それは、科学者からすると、理解の範疇を超える。
嘘で、塗り固めようとするのか?
この二つの、観察は真逆だ。
この二つの観察には、確かに相入れない要素がある。
しかしである。
相入れるのだ。
科学者は、物理を見ている、
物理は過去の産物だ。
現実も観察された時には、過去の事象になっている。
だからここにイメージは邪魔なものになる。
量子場師は心という量子を見ている。
心は、量子は未来の材料だ。
未来は設計図のごとくイメージによって創られる。
ここで、誰がこのイメージを観ているのか。
ここが重要なところだ。
イメージは、未だ現実ではないがために、
観ている者は、意識なのである。
そのために、量子場師にとって、現実や判断は邪魔なものにさえなる。
それは、斬新な家を建てようとした時、
今まであった古い家にこだわる必要がないのに似ている。
だから、両方の観察は真逆ではあるが、共に正しいのだ。